トーキョーブックガールさんが紹介されていて気になって読んでみました!
わりと薄めな本なのでさらりと読めるけれど、最後が衝撃的すぎた。
あらすじ
アイリーンはある時、幼少期の友人であるクレアと出会う。驚くべきことにクレアは白人として暮らし、黒人ということは隠して白人の夫と結婚していることを知りーーー!?
読んでみて
年代は1925〜1927年。
最近よく読んでいるハリエット・タブマンは1822年くらいから1913年。
第一次世界大戦が起こったのが1914年から1918年。
黒人の参政権が認められるのは1965年。
ニッケル・ボーイズは1960年代のアメリカ。
青い眼が欲しいは1970年に発表された。
こうやってみると、本作の舞台である1925年から1927年は奴隷解放宣言が出されてから60年ほど経ってはいるが、まだ差別は根強く残っており、白人女性の参政権が認められたばかりで黒人の参政権は得られていない時代になっている。
ところが、冒頭を読んでいると今と変わらないような描写が多いことに驚く。ニッケル・ボーイズのエルウッドは公共交通機関に乗れないため他の黒人の乗っている車に相乗りさせてもらうという描写があった。つまり公共交通機関にもタクシーにも乗れなかったことが分かる。ところがアイリーンはタクシーに乗り、有名ホテルのラウンジでお茶をする。
どういうことかというと、黒人女性として生きているはずのアイリーンも「パッシング」、つまり白人として生きているということになる。もちろん彼女は黒人たちが住む街で、黒人の男性と結婚して、自分が黒人であることは隠していない。でも見た目は白人に見えるため、出先では白人として振る舞っている。そのため、エルウッドよりも40年ほど前であっても優雅な描写となっている。
時代がエルウッドよりも前なのに、とても近代的でありエルウッドと全く違う状況であることに戸惑ってしまった。つまり白人と黒人では全く世界が違ったということ。
「パッシングする」ことは生きていく上での知恵だと思う。ただ、アイリーンはクレアのことを否定しつつも些細な「パッシング」はしているところに矛盾がある。
そもそも「パッシング」とは?
見た目が白人なら白人でもいいのではないか?と思ってしまう。しかし、少しでも黒人の血が入っていると「黒人」になってしまうという人種差別が存在している。
ハリエット・タブマンのことを調べている時も、奴隷州から逃げるのに「白人に見える黒人奴隷が女主人に化けて黒人の夫を奴隷として伴って逃げた」というのを読んだことがあった。
大前提として黒人奴隷という制度自体が醜悪だが、見た目が自分達と変わらない人々を「奴隷」としていたことに対してもまた別の意味で醜悪さを感じる。
人は違う見た目の人々を恐れ、差別することはまだ分かる。自分達と違うと思うと怖いから。でも、自分達と同じような見た目な人々に対しても同じようなことをするってさ…。なんというか…。
白人の女性に対しては紳士的に振る舞っておきながら、見た目の変わらない黒人奴隷の女性に対しては非道の限りを尽くしたわけでしょ。そこの整合性をどうしてたのだろう?
歴史を見れば見た目が同じ人同士で果てしなく争っている訳でもあるし、「見た目が違うから」っていう理由は黒人奴隷という制度を維持するための方便だったのだろうなとは思うけど。
奴隷という制度を自分達と似たような人に行うのは罪悪感があるけど、見た目も違う人なら罪悪感が薄れる。しかも未開の地の人々を「助けてあげている」っていう感覚だった訳だしね。
でもこれって日本が第二次世界大戦の時にやったことに対しても言われたりするよね。
「同じ人間じゃない」「自分達よりも劣っている」「助けてあげている」「ひどい相手」だから、何をしてもいい。戦争でもよく使われるよね。急に人殺しを推奨されてすぐにできる人なんてほぼいないんだから、そうやって理由づけしないとできないよね。
アイリーンとクレアは二人とも白人に見える黒人である。
アイリーンは黒人男性と結婚し、黒人見える子どもでも問題ないと思っている。一方でアイリーンは黒人の血が入っていることを隠し、白人の男性と結婚する。
なんというか、もうハラハラしっぱなしだった。バレたらどうなるの??殺されたりしない??という不安が強かった。心臓に悪い物語だよ。
もう一人、白人に見える黒人女性が出てくるのだけれど、彼女は自分が黒人の血が入っていると伝えた上で白人の男性と結婚している。
見た目は同じ状況なのに、それぞれ違う生き方をしているのが興味深かった。
でも、大前提として「白い方がいい」ということが黒人の間でも共有されているのが悲しかった。クレアの場合は自分の子どもが黒い肌をしていたら夫にバレてしまうから白くないといけないのだけれど、夫に伝えている方の女性も子どもの肌は白い方がいいと思っている。だから白い肌でパッシングができるアイリーンが黒人と結婚したことに対して驚いている。
クレアの場合は子どもの肌が黒いか白いかで自分の運命が決まるわけで、ただでさえ出産って大変なのにそんな心労も加わるなんて辛すぎると思いながら読んでいた。
「青い眼がほしい」でもそうだけれど、白いということが正しいことのように考えられている。でも黒人というだけで公共交通機関やお店やトイレに入れなかったらそうなるだろうし、子どもに同じ気持ちを味わわせたくないと思うと白く生まれて欲しいと思うのだろう。
クレアは幸せそうだったが、実際には黒人社会から引き離されて辛く感じていた。黒人と親しく付き合わなかった時代に黒人とわざわざ付き合うことは自分のルーツを危険に晒すことになってしまう。
しかもクレアの夫は差別主義者だし。でも多分このくらいの感覚は当時にしては「普通の白人男性」だったのだろうけど…。
身の危険はなく安全で自由に生きることができるが自分のアイデンティティを隠し続けなければいけない世界が、自分のアイデンティティを持ったまま自分と同じルーツの人と生きていくことができるが安全ではなく差別される世界か…。
クレアの子どもの話題も出てくる。
物心ついてから自分に黒人の血が入っていると知ったらどうなるか、とか。私はあまりピンとこなかったけれど当時はすごく大事なのだろうな。
以前、自分は〇〇人だと思っている人たちにDNA鑑定をしたら「実はあなたが嫌っている△△人のDNAも入っていたよ!」みたいな動画を見たことがあって、みんなそれやればいいのになと思った。
日本も中国や韓国に対して嫌な感情を持っている人々はいるけれど、人類のルーツが日本ではないのだから周辺の人たちのDNAが入っている可能性の方が高いじゃんね。
人は思っていたよりも色々なルーツを持っているって思った方が世界が平和になるように感じるけど。
アイリーンは黒人として生きているけれど、黒人として生きることがどれだけ大変かを子どもたちには教えないようにしていて、そのことで夫と揉めている。夫は身を守るためにも早いうちから教えた方がいいと思っている。
アイリーンは黒人として生きて黒人として差別されるけれど、白人として扱われることもできるっていう部分が影響しているように思う。差別されているけれど、見た目で黒人と分かる人とはまた違う部分があるのだろうと思う。
ジェーン・エリオット先生の「青い目 茶色い目」の大学生バージョンの動画で、その講義の中で差別される側になった生徒が実はネイティブ・アメリカンであり差別されることは自分も知っている!と抗議するのだけれど、エリオット先生はそのことを言わなければ差別はされないでしょ、そのことをわざわざ言いますか?って詰め寄っていて、見た目で差別される人はそういうことさえできないのだと言っていたのを思い出す。
肌の色で差別をされる場合はどれだけ頑張ろうがそれを隠すことはできない。アメリカで警察官が無実の黒人を撃つのは見た目が黒人に見えるからであって、黒人の血が入っていても見た目が白人に見えるなら起こらなかっただろうことだもんね…。
もちろん対等に接してくれていたのにルーツのことを話したら急に差別されるのも辛い…。
本作はガッツリ人種差別についての話だと思っていたら、夫との関係だったり、今の人生だったり、そういう日常のことも多く入っていて興味深かった。ちょっと「春にして君と離れ」っぽい部分もあった。
彼女は夫に幸せになってもらいたかっただけなのだ。ところが、彼が現状のままで幸せになることができないことに彼女は腹を立てていた。加えて、夫に、ぜひとも幸せになって欲しかったのだが、彼女が真実願った彼の幸福とは、彼女自身のやり方に従い、彼女が用意した計画に則ることのみでかなうものであることを決して認識することがなかった。また彼女は自分が用意した以外の計画や方法はいかなるものであれ、多少間接的ではあるが、息子たちのために、そしていくぶんかは彼女自身のために大切にしてきた地位や財産の保全を脅かすものだと見なしていることも認めなかった。
「そうだな、きみの言うことはわかるよ。とはいえ、『人種を偽る』人たちはいつだってたくさんいる」
「黒人になろうとする人はいないわ、ヒュー。黒人が『白い黒人になる』ことは造作ないことよ。だけど、白人が『黒い白人になる』ことはそれほど簡単なことではないと思うわ」
黒人になろうとする人はいない。白人になろうとする人はいるけれど。
悲しいな、と思う。差別されるのは嫌だからこそ白人になろうとする。もし逆の世界だったら皆黒人になろうとしたのだろうな。
そしてラスト!
ラストが本当に衝撃的…。そんな…。色々な解釈ができるが…。
私はあまり同性愛的には感じなかった。アイリーンはクレアのことを魅力的に見ていることは分かるのだけれど、自分に置き換えて読んでしまうと「自分にない面を持った友人の女性」として見ているのかと思っていた。
ただ、確かにこの描写が異性同士だったら恋愛を絡めて考えていたかもな…とは思うので、私の受け取り方の問題かもしれない。
当時は同性愛もタブー視されていたため、著者にそういう意図があってもこれ以上は書けなかったのだろう。
ネラ・ラーセンは事情があって寡作の作家であるのが残念。もっと読みたかったな〜。
映画化されており、NETFLIXで視聴できるよ!
黒人になる白人という部分で、「私のように黒い夜」を思い出した。黒人差別の実態を暴くために白人男性が黒人男性になる。
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