文学系心理士の自己投資ブログ

文学系心理士が好きなことを徒然なるままに書きまくるブログ。小説、NETFLIX、たまに真理のことも?!

【トニ・モリスン】青い眼がほしい

【トニ・モリスン】青い眼がほしい

心がギュッとなる本でした。読む前にチラッとレビューみたいなのを見た時に、けっこう辛くてちょっとずつしか読めないってあって覚悟していたのですが、読む分にはけっこうあっさり読めました。ただ、山に雨が降って、水が少しずつ染みていくように、少しずつ心に溜まっていくような小説でした。

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

 

あらすじ

青い眼がほしい」と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたらみんなが愛してくれるかもしれないから。同じく黒人の少女である「わたし」が語り手となり、日常を少しずつ語っていく。周囲に生きてる黒人たちの人生とともに。最後にピコーラに戻っていくが…「青い眼がほしい」と祈ったピコーラは…

 

読んでみて

差別について

差別って徐々に浸透していくものなんだな、っていうことを真先に感じた。分かりやすいような差別主義者じゃなくても多くの人たちの中に差別は根付いている。普段は表面に出ていないだけで差別主義者だとは思っていない人であっても。そしてそれは当事者であっても。すごく根深いと思う。

黒人の少女が「青い眼がほしい」と願うことはその差別を体現していることに他ならない。青い眼に白い肌、ブロンドの髪でなければ認められない世界に生きているからこそ、自分自身を否定するしかなくなってしまっている。

黒人差別ってほんの少し前まで公然と起こっていたことであって、そしてほんの少し前までの彼らの社会がこんなにも理不尽だったなんてとてつもなく辛くなる。

自己肯定感とか自分に誇りを持つなんてことがこの社会ではできない。黒人よりも白人の方がどんな場面でも優遇され褒められ愛される。そんな社会で黒人として生まれ、大人たちもそんな社会を受け入れるしかなく暮らしているところで子どもが自分を誇りに持つなんて本当に難しい


色々な人生

ピコーらやわたしだけでなく、周囲の大人の色々な人生も辿っていくのが特徴的。どの大人の人生にも差別が出てくる。彼らにとっては生きることが差別されることであり、差別が社会構造のなかに組み込まれてしまっている

黒んぼやーい」と黒人の子どもが黒人の子に対して言う醜悪さ。なんとも言えない後味の悪さ。そんなことを子どもに言わせてしまう社会構造

差別されている人たちがみんな手と手を取り合って励まし合うわけではない。黒人の間でもランクができる。生き方や考え方や感じ方やお金やありとあらゆることで。だって人間だから。黒人っていうカテゴリーに無理やり押し込められているだけで、それぞれは違う人間だから実際の考え方や捉え方は千差万別なのは当たり前だ。

ピコーラの母、ポーリーンの人生はとても悲しくなる。彼女の家庭は崩壊しているのにも関わらず、他人の白人の家庭をとても素敵に保っているのも彼女だ。現実の自分の世界よりも仕事であるそちらの世界を選んだ。彼女はそのことで満足しているのだけど、満足していること自体がとても辛い気持ちにさせる。白人の子どもはポーリーンにとても懐いていて、彼女の愛情を受けている。でもピコーラは?白人の子どもには得られるものがどうしてピコーラには得られないのか?ただ肌の色違うということがそれほど大事なことなのか?それによって人生がまったく変わってしまうほどのものなのか?

こういう社会の中では白人に気に入られるようにするのも一つの生きる術だけれど、結局他の黒人と分断されてしまい白人側、差別する側の思惑通りになってしまうような気がする。こういう構造って「夜と霧」を読んだ時に、同じ囚人でも階級ができるっていうのを知ったけれどそれを同じように感じる。体制自体を変えるのに力を合わせるのではなく、その中で生きることに焦点を当てることになる。決してその構造自体を崩さないことを非難しているわけではない。構造自体はどうしようもできないことであると差別する側から徹底的に恐怖や学習性無力感などを埋め込まれた結果だと思うから。「1984年」で最終的には彼らが諦めてしまったのと同じだと思う。その構造を維持したい側からすると、その構造の中で反抗せずに生きようとする人たちは歓迎される。

モリスンは丁寧に一人一人の人生を描いていて、とてつもない大惨事が起こるところだけじゃなく、本当に日々の日常些細な出来事を描くことで差別を表現している。分かりやすい差別だけが差別ではなく、差別が浸透している社会で生きることの窮屈さ息苦しさそういうものを描いている

あとがきにも書いてあるのだけど、彼女がこういう作品を描くまでは分かりやすい差別についての作品しかなかったらしい。それもそうなのかも、と思う。たぶんこの本を読んだ人々はみんなが全ての人が例外なく差別に加担していることを自覚させられたと思う。そんな本を白人側はもちろん描かないだろうし。

例えば差別を批判して協力的な人でも内面には差別があったりする。爆然と下にみてたり。日本でも外国人っていう括りでバカにしたりするけど、私自身も相手が片言だと無意識に下にみてしまっていた。それが分かったのは、ネットで「日本語に来て日本語を話して働いている人は二カ国語以上話せている人」「しかも日本語という難しい言語を話せている人」みたいなのをみて、「全然自分より賢いんじゃん!」って思ったから。そこまで自分で考えれなかったのもどうなのって感じだけど。そもそも知らない国に来て働いてるとか普通にすごいし。そういうのも差別だったんだな、と思う。私が何か言動に表してなくても相手は薄々気付いてたりする。作中でもピコーラのことをあんまり触りたくないなって思う店主が出てくるんだけど、それをピコーラは感じ取っているそれがあまりにも辛い。でもきっと私たちにも無意識に思っていることがあるかもと感じる。

以下がピコーラが感じた引用↓

つまり人間を認めようという意識の完全な欠如ーガラスをはめこんだように隔絶した感じーを見る。(中略)それには刺があり、まぶたの底には嫌悪がある。彼女は、これがすべての白人の眼に宿っているのをみてきた。そのとおり。嫌悪感は、自分に、自分が黒人であることに向けられたものにちがいない。


差別をなくすのは差別を広めるよりもよほど手がかかる長い年月をかけて一人一人の人間の中に少しずつ蓄積されていくもので、身体のどこかに少しずつ浸透していってそこで同化してしまっているから、差別っていう何か一つをなくせばいいわけでもない

差別はあるもの。目にみえなくても、自分にも。そしてそう簡単には消えてなくらないもの。自分そういうとちゃんと向き合っていくしかないのだろうな。


「青い眼がほしい」

主題となっているこの「青い眼がほしい」、読んだあとはとても重い主題だと思うのだけど、日本だとけっこう頻繁に見聞きする。「ハーフ顔」「カラコン」とかそういうのが多くて、ピコーラの願いの本質とは違うのだけど、結局白人を優位に感じているからこど出てくるものなのだと思う。美の基準も白人文化から来たものだからそうなってしまうのも仕方がないのかもしれないのだけど。

美しい人は万国共通とか言ったりもするけれどそれもどうなの?と思う。こんなに人間がいてこんなにいろんな文化があるのだから、美の基準も色々あっていいのに、全体的に白人の文化によっていっているように思う。「青い眼」じゃなくてもいい世界に住みたい。全ての人がありのままで自分を愛せるような世界になりますように

 

私のように黒い夜

あとこの本を読んでいて以前読んだことのある「私のように黒い夜」を思い出したりした。

私のように黒い夜

私のように黒い夜

 

この本もすごく心に残っていて本当に読んでよかった本なのでぜひ読んで欲しい。作者は白人なのだけど、薬品で肌を黒人のようにして黒人社会に入っていくのね。そこで初めて黒人たちが受けている差別を体感するのだけど、今まで親切だった人たち(白人たち)に全く違う対応をされたり距離があった黒人たちから親身に話しかけられたり白人でも気さくに話しかけてくると思ったら自分を人間としてみてなかっただけだと分かったり...。上で引用したピコーラへの目と一緒。彼は本来は黒人じゃないのだけど、そういう対応をされるうちに今まで白人としてならできていたことが心理的にもできなくなってくる。結局はそういう社会構造が問題なのだと思う。肌の色は区別するのに分かりやすいから使われているだけで。いつの時代も階級社会を作りたいんだろうね。

似てるなぁと思ったのは、「英国メイド マーガレットの回想」での主人と召使側の関係

英国メイド マーガレットの回想
英国メイド マーガレットの回想

英国メイド マーガレットの回想

 

かわいい絵だけど描いているのは階級差別なのでけっこうヘビー。そこでも主人使用人には裸を見られても平気だし恥ずかしい話もなんだもできるのね。同じ階級の相手には決してしないことを使用人相手にはするのだけど、それも結局同じ人間として見てないからなんだよね。

そう思うと同じ人間として考える同じ立場として考えることができるかどうかが差別しているかどうかなのか。少しずつ蓄積した差別はすぐには消せないけど、相手を違う人間としてみないようにするのが差別をなくす一歩なのかなあ

あと作中にクリスマスに使用人たちにプレゼントをくれる主人が出てくるのね。そういう主人は稀だったらしいのだけど使用人側は不満なのね。一見すると「なんで?」って思うじゃんでも親切な主人も「召使い」に親切にしているだけで、実際には「人間」として親切にはしてないのね。使用人たちは信じられないくらい働いていて(いや、本当に信じられないよ!びっくりするよ!自分が当時に生きてたら早く死んでたと思うもん!)、上流階級との人間の差は永遠に埋められないようになっている。でもそういう部分をどうにかしようとは思ってなくて、ただプレゼントをあげるだけ。しかも自分たちが「親切」にしていることを自覚した上で。同じ人間ではなく、「使用人」として親切にしているのを使用人側は分かっているから「押し付けられている」と感じる。この感覚はマジョリティ側にいる時に注意しないといけない感覚だと思う。

他にも思い出した作品があって(どれだけ思い出すんだって感じだけど笑)、ジェーン・エリオット先生の「青い目と茶色の目」という授業のこと。調べたら動画が出てくるはず。

ジェーン・エリオット 青い目と茶色の目

学生時代に授業でみたのだけど、すごく衝撃的だったクラスの子どもたちを青い目と茶色い目に分けて、ある日は「青い目が優位」ある日は「茶色の目が優位」ってするのね。そうすると子どもたちの行動が変わるの。優位と言われた方はそうじゃない方をバカにしだす。優位じゃないと言われた方も自分自身がそうだと感じる。これをみると差別がどれだけバカバカしいかが分かる。黒人差別は国民のほとんどがこれをやっているのと同じだからね。

この最初の映像が有名だけど、子どもたちが大きくなってからエリオット先生に会う映像や、大学の学生相手に行う映像もあるのね。特に大学の学生に対して行った映像は普段差別にさらされていない人種の学生に対してけっこう辛辣なことを言っていて、「ちょっとひどくない?」って観たときは感じたし自分がやられたら辛すぎると思うのだけど、「行動する」ために当事者意識を芽生えさせる必要があったのだろうな、とも感じる。別に彼らだけのせいではないのだけど、特権を持っている側もその特権を持っていることを自覚してそれを問題にしていかないと差別に加担することになってしまうんだと思う。傍観者は加害者に加担してるっていうのと一緒で。

 

違いを認めた上で同じ人間だと考えていけるといいのかなあ。

長くなっちゃったのでここら辺で終わります。お付き合いありがとう。