ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんの作品を初めて読んでみました〜!
あらすじ
キャシーは提供者の介護人をしている。幼少期にはヘールシャムと呼ばれる施設で多くの子どもたちと一緒に育った。そこでは芸術に力を入れていて優秀な作品は「マダム」と呼ばれる女性が取りに来ていた。親友のトミーやルースもそこで一緒に育った。キャシーは昔を振り返りー。
読んでみて
本当に辛かった。
そもそもネタバレというか有名になった時期にどういう話かは宣伝されていたので知っていた。本を読み始めてみて、その謎の部分は徐々に明かされるということを知って驚いた。最初から知っていたのもありややもどかしさを感じながら読んでいた。
著者のカズオ・イシグロはそこを明かして宣伝してもいいと言っていたらしいが、欲を言えば知らずに読んでみたかったなと思う。ただ知らなかったら知らなかったで、あらすじがふんわりしているのであんまり興味を惹かれなかったかもしれない。みんなに気になってもらうためには概ね中身が分かったほうがいいのだろうな。
キャシーがいる世界が辛かった。
まず提供者と呼ばれる人たちがいること、そしてその人たちのことを社会が当たり前だと思っていること、提供者自身もそう思っていること、そして提供者の世話を提供者になる前の人たちがすること。
ひどすぎない??
目の前で将来の自分の姿を見せられるって辛いと思う。それこそ逃げ出したりする人はいなかったのだろうか?反旗を翻したりしなかったのだろうか?と希望を見出そうとしてしまう。
提供者たちに提供した後の世話も何もかも任せるって、提供者たちだけでまかなおうとするって醜悪すぎない??
しかも見返りがあるわけでもないし。お金もあんまりもらえてないっぽいし...。
読んでいて思い浮かんだのは「輝夜姫」。
文中で自分達のDNA上の親はオフィスで働くような親じゃないっていうのを読んで「どういうこと?」と思っていた。私は途中まで輝夜姫と同じように特定の人のドナーなのかと思っていた。つまり裕福な人たちが自分と同じドナーを作っている、という。でもそういうわけではなく、もっと広く認められていて当たり前の「医療」となっていることが分かった。
エミリ先生が言う。
癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます?不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます?そう、逆戻りはありえないのです。
なかなか辛い。自分だったらどうだろう?と思う。
治る!助かる!と思ったのに倫理的な問題のせいで難しいということになったら?
自分の大事な人が助からなかったら?
確かに一度知ってしまったら戻れなくなるかもしれない。
でもやはりキャシーたちの人生は辛い。人間と変わらないのに提供者となるのは。
じゃあどこまでならいいのか?
細胞レベルならいい?臓器だけならいい?人格がなければいい?SFみたいに液体の中にずっといるのならいい?
どこをどう線引きしても、そこまでいいならもうちょっと先までいいのではないか?ということになりそうな気がする。
輝夜姫ではドナーたちは生きようとする。そしてもう一つ浮かんでいたのか「約束のネバーランド」。最後までは読んでいないけれど、自分達が食べられるために育てられていると分かってからは必死に抵抗する。
そういう必死の抵抗がキャシーたちにはなかった。
だからもどかしく感じてしまった。
そこで抵抗していれば読んでいるこちらもそこまで苦しくなかったと思う。
でも彼らは抵抗しなかった。キャシーとトミーは少しでも期限を延ばしてもらおうとした。
それもたった3年だけ。
自分達が提供者であるということ自体に抗おうとしたわけではない。
どうしてなのか?自分なら抵抗するはずと思ってしまう。
でもそれは今の自分の生活は普通であって提供者の生活は普通ではないと分かっているからかもしれない。
彼らは物心つく前から自分が提供者であることを知らされてきた。それが当たり前だと。
何も知らないまま育ったわけではない。だからこそその時がきても動揺はするけれど驚くことはない。
巧妙だな、と思う。
もちろん彼らが抵抗したところで周りは全員敵だし、彼らのことを人間だと思っていないのだからすぐに連れ戻される可能性は高い。
今の自分達の常識に照らし合わせると「提供する」というのは例えば「労働する」ということに代えて考えることもできそうだと思った。
今は全ての人が働くのが当たり前だけれど、働かなくてもいい人もいる。働かないといけない側は一生懸命働いて安い給料をもらうけれど、元々働かなくてもいい人もいるし少しの時間で高い給料を稼ぐ人もいる。そういう格差があるのは当たり前だけれどそれ自体がおかしいという人はいない。過労死だったり働きすぎて体調を崩すことがあっても。
もちろん提供者は体調をただ崩すだけではなくて実際に臓器を提供するのだから、提供者の方が辛いとは思う。
でもなんとなく、提供者として生まれた人たちは提供をすることが自分達にとっての仕事、使命だと思っている。だから介護者にしばらくなるとみんな提供を始めたいと思うのだろう。
つまり既存の価値観を当たり前だと刷り込まれたらそこから反抗するのは難しいということ。歴史的にみても例え不当な扱いを受けていても本当に厳しくてどうしようもできない時にやっと反抗することができる。そこでやっと市民は団結できるのだから。
提供者たちも「そういうもの」と思ってしまえば抵抗はできないのだろう。それに一度に一斉に提供するわけでもないのだから。
4回目の提供で亡くなる人が多い、さらにトミーはその後も意識だけ残った状態であらゆるところを提供されるのではないかと心配していた。
それを考えると本当に怖い。
なんてそんなひどいことができるのか…。
マダムたちが怖がっていた感覚は私にはよく分からなかった。
自分達とは未知のものだから恐れるのか?
それとも同じ人間だと思えば思うほど罪悪感を感じるからだろうか?
キャシーたちから見ると自分勝手だよな、と思う。勝手に作っておいて勝手に怖がるなんて。
物語自体は提供者という不穏な話よりもキャシーとトミーの関係性、ルースとの関係性、心の揺れ動きが中心となってくる。本当に丁寧に描写されているので、直接キャシーたちを知っているようにも感じられる。
でも常にその奥にある不穏さが見え隠れてして、一体どういうことなのか詳しく知りたくてページをめくっていた。
カズオ・イシグロさんの話を読むのは初めてだっただが、とても興味を持ったので順番に読んでいきたい。ソーシャル・ワーカーだったというところも勝手に親近感が湧いてしまう。
よく聞く「クララとお日さま」も読みたい。