チママンダ・ンゴスティ・アディーチェさんがTEDで講演したものを文章化した作品。
TEDの映像は視聴済み。
本もあることを知って読んでみることにしました〜!
可愛らしいサイズの本で、厚さも薄い。
講演会の口調のままなので、サクサク読める。
チママンダさんはナイジェリア生まれ。
ナイジェリアでの経験は日本にいる私にも共感できる部分が多かった。
不思議だよね。日本って先進国のはずなのに。
でも韓国も男尊女卑だし儒教が身近だと家父長制が当たり前になってしまうのか…。
ただ、日本よりもナイジェリアの方が男女差別は強いと思う。
働く女性、一人前の女性という考えがあんまりなくて、男性の付属物として見られることが多い。レストランでもウェイターは男性には挨拶するが女性には挨拶しない。
これは日本では考えられないよね。お金を払うのが男性だろうが女性だろうが「お客」として接するから。
男性側も同伴の女性が無視されたら不快にならないのだろうか?と思うけども。でも基本的にはそういう状況を男性側は気づいていないことが分かる。うーーーん。
それほどむかしのことではありませんが、ラゴスで若い女であることについて記事を書きました。するとある知人から、あれは怒っている記事だった、そんなにかっかすべきではない、といわれました。でも、わたしは弁解しませんでした。もちろんその記事は怒っているものだったからです。現在機能しているジェンダーは非常に不公平です。
わたしは怒っています。私たちはみんな怒るべきです。怒りにはポジティヴな変化をもたらしてきた長い歴史が あります。でもわたしには希望もあります。自分たちをより良いものに作りなおす人間の能力を信じているからです。
でも話を怒りにもどしましょう。その知人の語調には警告が聞き取れたので、その意見がわたしの記事について、さらにわたしの性格について述べているのがわかりました。
言外に、怒りはとりわけ女性にとってよくない、女性は怒りを外に出すものではない、なぜならそれは人を脅かすかといっていたのです。
これはとても共感できた。日本でもそうだし、西欧諸国でもどこでも怒る女性はよくないと思われる。長年ヒステリーって言われてきたわけだし。
実際、女性と男性が同じように怒っても、周りの人は男性の場合はそれくらい重要なことだと感じるけれど、女性の場合は感情的になっていると思うらしい。相手のことを尊重してないからなんだろうな…。意識的ではなく、無意識的にそうなってしまうのだと思う。
私も怒ることってすごくネガティヴなイメージがあったけれど、怒ること自体は良くも悪くもないということが頭では分かるようになってきた。でも怒るっていうのはやっぱり罪悪感を感じてしまうよね。
男の子からどう思われるかを気遣いなさい、と女の子に教えることに私たちはあまりに多くの時間を割いています。
でも、その逆はありません。男の子には人から好かれるようにしなさいと教えたりはしないのです。女の子には怒ったり、攻撃的になったり、容赦なかったりしてはいけない、と教えるのにはたっぷり時間を割くけれど、それだけで十分悪いことですが、それでいて私たちは男性となるとくるりと態度を変えて、おなじ理由で褒めたり、大目に見たりするのです。世界中で、あふれんばかりの雑誌や書籍が、女性にああしろこうしろと指図して、男性に魅力的に見えるには、男性を喜ばすには、どうすればいいかを教えています。逆に男性に女性を喜ばせることを教えるガイドブックはごくわずかです。
確かに!
女性が男性に合わせる情報はたくさんあるけど、逆は少ない。
あったとしてもそれはモテるためとか手に入れる過程でのことが多い。
女性の場合は付き合う前も付き合ってからもずっと気に入られるようにしなきゃいけないって感じだよね…。ファッション雑誌とか見ていると、〇〇タイプの男性には〇〇な服装!みたいな内容が多くて、そういうのが嫌でみるのをやめた。
相手に合わせたいならその相手に直接聞けばいい話だし、そもそも相手の好みに自分が左右される必要なんてないのに。
結婚しろというあまりに強いプレッシャーをーー家族から、友人から、職場からまでーー受けて、とんでもない選択をしてしまった女性たちをわたしは知っています。
私たちの社会は、ある年齢までに結婚しない女性に、それが深い個人的な欠点だとみなすように教えます。ところが男性は、ある年齢までに結婚しなくても、そこまで選択を迫られることはありません。
「しかしそんなことに女性は全部ノーといえるじゃないか」というのは簡単です。でも、現実ははるかに困難で、ずっと複雑です。私たちはみんな社会的存在です。社会のなかで生きることによって、その価値観を内面に取り込んでいくのです。
これは日本と一緒!
結婚しないと結婚しない理由を聞かれるよね。特に女性なら。
男性も聞かれるだろうけど、独身貴族として生きたいんだなって思われることも多いと思う。
こういう価値観嫌いなのに自分の中にもこういう価値観が根付いているのが嫌。
ここは笑ってしまった!そりゃそうだ!
私たちは女の子を監視します。女の子が処女であることを褒め讃えるのに、男の子が 童貞であることを褒め讃えたりはしません(どうしてこれで辻棲が合うとされるのか不思議でたまりません、だって処女性を失うこととは通常、ジェンダーの異なる二人の人間が関わるプロセスなわけですから)。
妊娠や中絶のことも女性の問題のように言われることが多いけれど、実際は女性と男性両方の問題だよね。
男性が透明になっていることが多い。ジェンダー規範がなければもっと男性も積極的に育児に関われたはずなのに。
夫とおなじ学位を取り、おなじ仕事に就いた女性を知っています。仕事から帰ると彼女は家事の大部分をやります。これは多くの結婚したカップルに見られることですが、わたしが強い印象を受けたのは、夫が赤ちゃんのおむつを替えるたびに、妻が彼に「ありがとう」といったことです。
もしも夫が育児を分担するのはごく普通の、当たり前のことだと妻が考えたらどうでしょう?
これは私も友達からよく聞くよ…。夫に手伝ってもらうためにお礼を言うの。
お互いにお礼を言うのならいいけれど、そもそも家事や育児の配分が不均衡なのに多少のことをやってもらうために「ありがとう」と言わなければならないって…。
心に残った部分。
わたしはよく祖母をじっと観察したものでした。とても聡明な人で、もし祖母が若いころに男性とおなじチャンスをあたえられていたらどうだっただろう、と考えます。祖母の時代にくらべると、今日では女性にもより多くのチャンスがあたえられるようになりました。政策や法律が変わったからです。ここがとても重要です。
でも、さらに重要な問題は、私たちの態度、考え方です。子供たちを育てるときに、もしもジェンダ ーよりもその子の「能力や才能」に焦点を合わせたらどうでしょう?
ジェンダーよりもその子の「興味や関心」に焦点を合わせたらどうでしょう?
ジェンダーの問題は、私たちがありのままの自分を認めるのではなく、こうある「べき」だと規定するところにあります。もしもジェンダーによる期待の重圧がなくなったら、私たちはどれほど幸せで、自由で、個々人が本当の自分でいられるかを想像してみてください。
わたしはもう女であることに弁解じみた態度をとらないと決めました。女である ことでそのまま敬意を受けたいのです。当然そうあるべきなのですから。
男性のなかにはフェミニズムと聞いただけで脅威を感じる人もいます。これは男の子がどう育てられるかに起因する不安感、つまり「彼らが」男として「生来」生まれついていないとすると、どれほど自尊心を軽視されたと感じるかという不安感によるものだと思います。
「オーケー、これは興味深い、でも僕はそうは思わない。ジェンダーなんてことも僕は考えない」といって応答する男性たちがいるかもしれません。
そうではないかもしれませんが。
そしてそこが問題なのです。つまり多くの男性がジェンダーについて積極的に「考える」ことをしない、ジェンダーのことに気づいてさえいない、ということが問題なのです。多くの男性が友人ルーイがいったように、むかしは悪かったけれどいまはすべて良くなったといいます。その結果、多くの男性が現状変革のために何もしない。もしもあなたが男性で、レストランに入るときウェイターがあなただけに挨拶をしたら、「なぜ彼女に挨拶しなかったの?」と質問しようと思いますか? 表面的には小さなことに思えるあらゆる状況で、男性が声を上げていく必要があるのです。ジェンダーはなんとなく居心地を悪くするものなので、こういう話し合いを終わりにする安易な方法はたくさんあります。
そして、何年も前に辞書でそのことばを調べたとき、辞書にはこうありました「フェミニストとは、社会的、政治的、経済的に画性が平等だと信じる者」。
わたしのひいおばあさんは、わたしが聞いた話から判断すると、フェミニストでした。結婚したくなかった男性の家から逃げ出して、自分の選んだ男性と結婚しました。女だからという理由で土地を奪われて、その土地へ入ることができないとなれば、どんなときもそれを拒否して抗議をし、声を上げました。彼女は「フェミニスト」ということばは知りませんでした。でもそれは彼女がフェミニストではなかったということではありません。
もっと多くの人がフェミニストいうことばをリフレッシュさせなければいけないのです。わたしの知る最良のフェミニストは弟のケネです。弟は優しい、ハンサムな、とても男らしい若者です。わたし自身の、フェミニストの定義は、男性であれ女性であれ、「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」という人です。
女も男も、私たち「みんな」で良くしなければいけないのですから。