価格:2,035円 |
あらすじ
ある時、女性にパワーが生まれた。圧倒的な力の元、男性と女性の関係性は変わっていく。
アリーはパワーを手に入れて養父母の元から逃げ出す。イギリスのギャングの娘であるロクシーは、殺された母の復讐を誓う。トゥンデは変わりゆく世界の中で女性たちを取材するジャーナリストになる。市長だったマーガレットは、パワーが生まれた世界の中で順調に出世していくがー。
読んでみて
本当に素晴らしい作品だった。
「侍女の物語」を読んだ時と同じような衝撃があった。
それもそのはずで、マーガレット・アドウットが師匠であり、アトウッドに読んでもらいながら書いたよう。
他にもアーシュラ・K・ル=グウィンにも読んでもらっていたみたい。
ゲド戦記のイメージが強かったのだけれど、実はSFの女王と呼ばれていたのを初めて知った。
この辺りもまた読んでいきたいな〜。
この本の構造として、男流作家であるニールが男流作家を支援するナオミに作品を送り、感想を尋ねる手紙のやりとりが基本の構造としてある。
その作品の内容は今と同じような現代で、ある時、女性にだけ「パワー」という強大な力が表れたという話から始まっていく。
最初は今私たちが生きている世界観と同じような世界で入りやすい。
男性がトップに立ち、女性たちが蔑ろにされている世界。
でもそれが当たり前だから誰も疑問に思わない。
そこでの女性は、男性を恐れて生きている。もちろん親しい男性や父親はいるけれども。
ところが、突然少女たちに強大な力が生じる。
初めはフェイク映像だと思われたが、多くの少女がパワーを使えるようになり、事実だと判明する。
過激な男性たちは力がある女性を取り除くべきであり、殺す必要があるとも主張する。
力が表れた始めた最初の頃はとにかく混沌としている。
その流れが実にうまい。
今まで力があった男性たちは、自分を上回る力を持つ女性たちを恐れる。
実際に人身売買で捕まっていた女性たちはパワーを使って脱出に成功していく。
蔑ろにされていた女性たちは声を上げ始める。
今まで蔑ろにされていた女性が声を上げ、本来の自分の権利を取り戻していく様は爽快ですらある。
でもそれだけでは終わらない。
女性たちは声を上げ続け、そしてパワーバランスが崩れ始める。
男女が平等にはならず、女性が優位となっていく。
そこで平等になれたら理想だったのにね…。
結局のところ一方に力が集中すると偏ってしまうのだと思う。
今の世界に生きていると、「男女が逆転した世界なんて急には無理では?」と思ってしまう。
パワーがいくら現れたとはいえ、権力を握っているのはほとんど男性であるから、今の社会ではそれほど意味がないように思ってしまう。
ところが、女性が力を持ち始めることで、徐々に人々の考え方まで変わってくる。
「女性は強くあらねばならない」という価値観が当たり前になっていく。
そんな中で分かりやすかったのは宗教観が変わっていくこと。
イエス・キリストではなく、イエスを産んだ聖母・マリアの方が上であるという考え方。
人々を作ったのは神。作った神が人より偉いのなら、イエスを産んだ聖母・マリアの方が偉いはず、と。
まあ確かに男性である「神」が多いのは、結局のところ男性社会だったからなのか、と感じる。
そうやって価値観が変わっていくと、当たり前だけれど女性が優位になってくる。
パワーがあることがあらゆるところで優位に働く。
最初は今の私たちと同じような世界だったのに、いつの間にか常識が変わっていく。
例えば、ロクシーは弟に取引を任せていて、「よくやっている」と言う。でも、「何かある時は女が出ていかないと」というようなことも言う。
これだけで、今の世界と変わっていることが分かる。
今の世界なら逆のことを言われるだろう。「何かある時は男が出ていかないと」と。
初めの頃は、女性に対して暴力的に対抗しようとする男性たちは過激すぎると思っていた。
心配しすぎている、と。
ところが彼らが恐れていたことが事実になってくると、彼らへの見方も全く変わってくる。
しかも恐ろしいことに、本当に恐れていたことが起こった時には、もはやそれを事実だと周知させる術がなくなっているということ。
やっている側が権力を握っているのだから。
女性たちが行う残虐な行為を読むのは辛かった。
「どうしてこんなことができるのか?女性ってこんなにひどいのか?」と感じていた。
その時に気づく。
「これは男性がやってきたことなのか。そして今も現在進行形で。」ということに。
女性が残虐でひどいと思うえば思うほど、それは今も同じことをしている男性へのミラーリングとなる。
とてもうまくミラーリングされているからこそ、本当は男性・女性なんて関係ない部分もあるのだと気づく。
冒頭で、男流作家を支援しているナオミが言う。
おっしゃっていた「男性の支配する世界」の物語はきっと面白いだろうと期待しています。きっといまの世界よりずっと穏やかで、思いやりがあって--こんなことを書くのはどうかと思いますが--ずっとセクシーな世界だろうな。
この部分は本当にすごい。ものすごく皮肉っている。
これは女性に対して言われてきたことだ。でも今作ではそれも反対になっている。
男性が暴力的ー女性は穏やか、男性は穏やかー女性は暴力的。
そうやって枠付けをするのはその文化の違いであって、実際の差異ではないように思う。
権力を持てば人は残虐になれる。自分が正しいことをしていると思えば犠牲は厭わない。
一番暴力的だったロクシーが、結局のところ暴力に頼らなくなるというのがこの作品を表していると思う。
そしてアリーの真実も衝撃的だった。
男性が一人では外出できないなど、差別的な内容の法律ができた時の女性たちの描写が侍女の物語の主人公の夫の描写と重なった。
女性はあきれはてたという顔をしようとし、と同時に連帯感と励ましの表情を浮かべようとしている。「心配しなくても大丈夫、こんなことがずっと続くはずはないし、そのあいだはわたしたちが協力するから」というように。
侍女の物語でも思ったけれど、本当はその時にみんなが怒るべきだった。
侍女の物語では男性が、パワーでは女性が。
ものすごく共感できたし、心に残った箇所。
日本は安全だと言うけれど、同じようなことはいつも感じている。恐らくあらゆる国の女性たちが感じていることだと思う。
こうやって言語化されると自分の心情をとても理解できる。
若い男たちはおびえていてそれどころではないし、女に話しかけるのはまったく無意味だった。目を合わせることすら危険な気がした。
路上で女たちの集団--笑ったり冗談を言ったり、空に向かってアークを飛ばしたりして いる--のそばを歩いたとき、トゥンデは胸のうちでこうつぶやいていた。 ぼくはここにいない、ぼくは何者でもない、だから目を留めないでくれ、ぼくを見ないでくれ、こっちを見てもなんにも見るものはないから。
女たちはまずルーマニア語で、それから英語で声をかけてきた。彼は歩道の敷石を見つめて歩いた。背中に女たちが言葉を投げつけてくる。淫らで差別的な言葉。だが、彼はそのまま歩きつづけた。
日記にこう書いた。「今日初めて、路上でこわいと思った」インクが乾いたとき、その文字を指でなぞった。真実は、その場にいない者のほうが耐えすい。
作中に描いてある、昔の壁画に対しての説明
「抑礼」ーー男性性器切除ともいうーである。この儀式は、思春期に近づいた男児の陰茎の充当な神経終末が焼き切られる。この処置(ヨーロッパのいくつかの国ではいまもおこなわれている)を受けた男性は、女性のスケインによる刺激なしでは勃起が不可能になる。また、射精のたびに痛みを感じるようになる男性も少なくない。
これを見た時に「なんでこんなことするの?なんの意味があるの?苦痛を感じさせるなんてひどい。」と率直に思った。
でも次の瞬間、これの女性バージョンは今も行われていることに気づいて驚愕した。そこで自分の価値観が凝り固まっていることに初めて気づいた。
女の赤ちゃんを大々的に中絶したり、その生殖器官を傷つけたりすることは、文化にとって進化論的な意味がなかったのでしょう。ですから、こんなふうに生きることはわたしたちにとって「自然」なことではないのです。そんなはずはありません。わたしには信じられません。もっとべつの道があるはずです。
これを読んで、確かに女の赤ちゃんを中絶するなんて子孫を多く残したいのではあれば非効率だと気づいた。
浮気や不倫やらをした男性が子孫を残すための本能だとか言い訳することがあるし、色々な場面で男性にはそういう本能があるから仕方ない、と言うのを耳にするけれど、本当に子孫を残すことが本能としてあるなら女性を殺したりしないはずだと思う。
だから本能ではなくてただの言い訳。
女性が差別されるているのを事実として知っているし、それが当たり前のように感じてしまっていたことに今更ながらに気づいた。
当たり前だからこそ、それが行われていること自体には疑問を感じないようになっていたように思う。
とても長い間行われてきたから。
それこそ子孫を残したいのが本能ならもっと女性を優遇するはずだけど、そうじゃないのは結局女性は人間として見てもらえてなかったということなんだと思う。
権力を握る男性の付属物、トロフィーなのだろうな。
著者のあとがきの言葉が心に残った。
しかし、文脈が欠如しているにもかかわらず、これらを発掘した考古学者たちは、イラストにある滑石製の胸像を「神官王」と呼び、いっぽうブロンズ の女性像のほうは「踊り子」と名づけている。この名はいまでもそのままだ。本書で書いたことはみな、この事実とこのイラストだけで伝えられるのではないかと思うときがある。
最後の最後で笑ってしまったのが「かじられた果物」の真実について。
「モチーフが均一であることから、宗教的なシンボルであると思われるものの〜」のところ。
作中にあったときは何が何だかよく分からず…。
私の察しが悪かった笑。
でもみんな気づくのだろうか?!
著者のあとがきで種明かしがされており、めちゃくちゃ笑ってしまった。
確かに宗教的なものと捉えられても仕方ない。
将来見つけた人たちはそう思うんだろうか??
今の私たちはかじられたりんごを崇拝していたと?
ちなみに映像化の噂があるようですが、まだ出てはいないよう。観てみたいな〜!