1984年を読んでみたよー!有名なディスピア小説!とてつもなく勉強になったしおもしろかったけど簡単に言うと鬱になる小説でした。笑
にしても記憶があっても記録が違うと事実が変わってしまうっていうのにちょっと衝撃。ネットで情報伝達が早くなった今こそ、すぐにフェイクニュースとかにされそうで怖い。
鬱々したけどもあとがきまで含めて読むことでちょっと希望がみえてくるはず!
あらすじ
<ビック・ブラザー>率いる党が支配する世界。ウィンストン・スミスは真理省記録局にて文書の記録などを改竄することが仕事だった。日常をも全て監視されている社会を窮屈に感じていたウィンストンは、ある時ジュリアと出会い逢瀬を重ねていく。しかし自由に恋愛すことさえも犯罪であった。徐々に反政府組織に傾倒していくウィンストンだが、その先に待っていたものはーーー?
読んでみて
大人になってからこういう小説をちゃんと読んでなかったので、アアーーーッって感じになった笑
言語化できてなさすぎるけど笑
めちゃくちゃ鬱々するよりもなんというか一種のあきらめというか学習性無力感をものすごく感じた作品でした。主人公たちの変わりようが怖い。未来への警鐘なわけだからヒーロー的な展開にはならないと思ってはいたけれど、救いがなさ過ぎて怖かった。でもそういう人たちって現実にも実際にたくさんいるんだろうな...。
文化や芸術の破壊
主人公たちが住んでいるオセアニアの実態がページをめくるごとに少しずつ分かってくる。
よくありがちな自由な発言を統制するだけでなく、考えること自体を規制しようとする。初めは考えること自体が犯罪っていうのがよく分からなかったけど、だんだん文章も小説も想像力も文学も芸術もありとあらゆる思考全てを否定していて破壊しようとしていることが分かる。
その時の衝撃といったらなかったよ!だって今この本を読んでいる私自身も否定されるわけだもん!
小説が好きな人や文章が好きな人や本が好きな人全てを否定しているわけで...。1984年を書いているオーウェル自身のことも否定してるよね。そういう世界を作ろうとしていることが衝撃的だった。そんなつまらない世界に生きて何が楽しいのか全く分からなかった。古典文学も改編しようとしていて、そんなのもはや全く違う作品だし、作者への冒涜だし、読者のことも馬鹿にしているし...。
それに文章だけじゃなく芸術全部を否定しているわけで、今のステイホームのご時世に芸術っていうのはものすごく助けになっていて、人々の生きる希望というか糧になるもの。それをなくした世界って一体何が残るんだろうか...。そんな世界で権力を握ることになんの意味があるのだろうか...。
二重思考について
すごく興味深かったのは二重思考について。
実際は気づいているのにそれを気づいていないようにするというか。しかもそれを意識的にやるのではなく無意識的にやることなんだけど、最初は「何言ってるんだ?」ってすごく混乱した。
徐々に二重思考についての意味が分かってきて作中で読者からみると二重思考の負の面が強調されているのだけど、あとがきでは「認知的不協和理論」を例に出したり、二重思考を天才の証明と考えたウォルト・ホイットマンは「ぼくが自己矛盾をしてるって?大いに結構、たっぷり矛盾してやるとも」と発言していることも紹介している。
つまり二重思考というのは意識せずに、いや実際はなんとなく意識しているからこそ無意識的に意識しないようにしている術であって、生きるための知恵でもある。
作中では二重思考をすることは政府側にとって都合の良いことになっているが、状況を変えれば二重思考をできるということはより人間らしい人間であるという言えると思う。
常々思うのはこの世界は白か黒かで判別できる世界ではない。だからこそ、そういう世界で生きるために人は二重思考を使っていると思う。世間に呆れながらもどこかで希望を捨てれなかったり、裏切られてもどこかで人を信用しようとしたり、薄々問題だとは気づいていてもそれに気付かないふりをしたり…。実際にオーウェルも鬱小説である「1984年」を書いているけれど、そんな未来が来ないことを一番切に願っているわけだし。
作中では矛盾を意識的には抱かないようにしているが、本来であればその矛盾を抱えて生きることができたらいいのではないかと思う。矛盾を抱える、物事を中途半端にさせたままにしていくのは難しい人も多いけれど、本当に考えた人ならば簡単に白黒つけれないことが分かるはずだと思う。
でもまあそうなると賢い人間ができあがるわけで、白黒でみもらった方が権力者としてはやりやすいんだろうな。一度崇拝すべき人という枠組みに入ってしまえば、体制自体を壊さない限りは何をやってもよくなるし、敵は永遠に敵になるし…。
自分の特権を守るために他者の人権を認めない
1984年では一貫して特権者以外の人権を認めていない。オセアニアの国民たちを3層ぐらいの階級社会に分けているけれど、実際に人権が認められているのはごく一部の人間たち、特権階級の人間しかいない。
この世で起こっている差別は、特権を得ている人たちがその特権を脅かされたくないからこそ差別をやめようとしないのだと思う。本作ではその特権を権力と言っているけれど、ようは一緒だと思う。なんか権力っていうと漠然としていてよく分からないのだけど、つまり自分が優遇される権利のことだと思う。
例えば黒人に対して白人側が差別をし続けるのは現状を脅かされたくないから。彼らに職や家や地位を奪われたくないから。差別する側からしたら元々持っている権利を奪われるのは被害的に感じるのだと思う。女性差別にしてもそうだし、他の多くの差別にしても同じだと思う。自分の特権を手放したくない、その上で自分よりも下の人たちをいいように扱いたい(女性の場合なら低賃金・非正規で働かせることで男性側はあらゆる点で優位にたてる)、自分より下の人間がいるということの優越感から差別をなくしたくないんだと思う。
差別をする人って差別をすることが良くないってことが分からないなんてかなり頭悪いと昔は思っていたけれど、そうじゃなくてむしろ計算して自分の権利を守ろうとしている人なんだということが分かった。だから賢い人であっても差別主義者はいる。でも差別をし続けなければ自分の権利を守れないってことは自分が優秀じゃないって周りに伝えているようなものだけど恥ずかしくないのか。そうまでしないと安心できないのか。きっと相手が変に優遇されて自分は除け者にされていると感じやすいんだろうな。
階級社会と現在
1984年の世界は階級がかなり明確で分かりやすいが、現在と似ているところは多いように感じる。例えば高等教育を全ての人に開いた方がどう考えても国ためにも将来のためにも絶対に良いはずなのに政治家はそれをやらない。そういうことをすると自分たちが不利になるってことが分かってるんだよね。
オセアニアでもプロールたちは党員になることはできない。その一方で俗世的なもの(歌、小説、性的な関係などの人間らしさ)が認められている。党員たちは俗世的なものを認められていないが、自分たちは優秀で選ばれた人間だと思うことでプロールたちに対して嫉妬するなんてことはない。プロールたちは底辺だが、彼らには娯楽があるため人間らしく生活することが可能であるため生きることに精を出す。それぞれがそれぞれを憐む関係であるため暴動は起きないし、一緒に立ち上がることもない。特権階級に非難が集中することもない。
日本でも自分より下の人間に非難がいくことが多い。政治家の金の問題よりも生活保護でのお金の問題の方がよく叩かれる。金額としては特権階級の不正の方が問題なのに叩かれるのは自分たちより弱い人間が多い。自分たちより下だと思っていた人間が優遇される方が、上だと思っていた人間が優遇されるより拒否感が強くなる。なにしろ自分より下だと思うことで自尊心を満たしていたわけだから。
現代の社会との重なり
1984年の世界は徹底的な管理社会が既に運用されているため、主人公たちが些細な反抗をしたとしてもすぐに握りつぶされてしまう。本当に些細な反抗だと思う。実際に党に対して何か明確な影響を与えたわけではないから。
もっと昔になんとかならなかったのか、と思ってしまう。多くの人がおかしいと思った時には既に反抗できない状況が作り上げられており、よく「政府を批判できるのは自由な社会だからだ!」とか言うけど、本当に政府を批判できなくなった時には「政府を批判できない」という事実さえ表明することや共有することはできないと思う。
と思う。だからこそそうなる前に歯止めをかけなければならないのだけど、その段階では多くの人は無関心だから厳しい。
終わりに
読んでしばらくして「何しても無理なんだな」という感じでちょっと鬱っぽくなってしまったけれど、あとがきを読むとオーウェルが息子の将来の世界を案じていたからこそこの作品を描いたことが分かり、作中でもプロールたちの力を強く信じていたことを思い出し、歴史をみるとどんな政権もいつかは倒されてしまっていたことに気づかせてくれる。