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【オーウェル】動物農場

1984年に続いて動物農場も読んでみました!

題名だけ見るとほんわか楽しそうなのに…!

そんなことない?笑

あらすじ

人間に管理される農場に住む動物たち。

ある時、人間を追い出して動物たちだけの農場を作ることに成功する。

よりよくなると信じて疑わない動物たちだったが、徐々に変化していきー?!

 

読んでみて

1984年と似ているところが多くあった。

動物農場のあとに「1984年」が書かれることになる。

1984年はすでにその世界が完成されており、その世界の枠組みに入っていた青年が疑問を持っていく話だが、動物農場の方はその世界の始まりを描いている。


舞台はタイトルの通り「動物農場」だ。

元々は私たちが知っている通り、人間が動物たちを管理していた。


でも動物たちはある日気づく。

どうして自分たちが生み出しているものを人間に取られるのか?と。

人間は何も生み出していないのに、と。

 

この辺りは現実でも人間が動物を搾取している構造になっているからこそ心に刺さる。

もちろん表面上の動物対人間の話ではないのだが。

 

でも元々特権を持っている側が本来生み出している側を搾取することってよくあるよね。

特に特権階級とそうでない人たちが別れていると。


反乱を漠然と計画していた動物たちだが、なかなか実行には移せない。

そんな時、人間たちが餌をやり忘れたことで動物たちはひもじい思いをする。

そしてとうとう我慢ができず、人間たちに立ち向かう。

計画して反乱したのではなく、お腹が減ってどうしようもないという欲求のために突き動かされたという部分がリアルだ。

計画した反乱だったら同意しない動物もいるだろうし、怖くて尻込みをしてしまう動物もいるだろう。

でも、切羽詰まった状況ならみんながみんな動く。


そんなこんなで人間が管理していた農場は動物たちの農場となる。

動物農場の出来上がりだ。

反乱する動物たちの主張は最もだったため、ここで終わっていればめでたしめでたしとなる。


ところが…

動物農場は「動物たちの農場」から「豚が管理する農場」になっていく。

 

この農場では豚たちが一番賢く、リーダーシップをとっていく。

他の動物たちは疑問に持ってもやり込められてしまうことが多い。

そうしてどんどん豚の特権は増えていく。

 

途中からその特権を止めたくても止めることはできない。

最初の方に止めていたらよかったのだけど、特権が増えていくと反抗することさえできなくなってしまうからね。

オーウェルは、豚がリンゴとミルクを独占したところが重要だったと述べていたよう。

そこかー!…という感じ。

だいぶ序盤。

でもそこで豚たちを批判したら「考えすぎ」って言われただろうな。

でもそこで止めれなかったら止めれないわけで…。

言えるうちに止めておくべきだった、ということですね。

 

批判できるのなら問題ないっていう考えを聞いたことあるけど、批判できる時に批判することが必要なのだよね。

そこを超えてしまったら批判することさえできなくなるからこそ、批判できる時に批判しておかないといつか批判さえもできなくなる。

 

にしてもボクサーが可哀想だった。

とてもいい馬で、働き者で真面目で優しくて…でも鈍くて考えることをしなかったから。

深く考えずに言うことを聞くだけの方が確かに楽だもんね。


この作品を出版社に持って行った際、多くの出版社が断ったそうだ。

知らなかったのだが、当時のイギリスではソ連の政策を肯定的に捉える風潮があり、悪く描かれたものは載せないようになっていたらしい。

しかも明らかにソ連のことを描いていると分かり、管理する動物が「豚」ということで断られたそうだ。


この辺りのことは、オーウェルのあとがきを読んでもイマイチ分からず、訳者の方の説明でやっと分かった。

ソ連に馴染みがなかったのだけれど、知っている人がみればすぐに分かることだったよう。


私はソ連に対して良いことを言っていた時代を知らないからか、そういう時代があったということに驚いた。

そして、オーウェルが予期していたということにも。

本書が刊行される頃には、ソヴィエト政権に対する私の見方こそが一般に認められるものになる可能性だって十分にある。でも、そのこと自体がいったい何の役に立つのだろうか?ある正統教義を別の正統教義で置き換えるのは、必ずしも進歩とは言えない。敵は、かけているレコードに同意しようがしまいが、蓄音機のようにそれを広めてしまう心のありかたなのだ。


オーウェルにとっては自分の考えが合っていたかどうかは関係ない。

何かを盲信したり、正しいと思うこむことが問題であり、そこをしっかり指摘し合い、考えることができれば良いのだと思う。

訳者あとがきでもこの作品はソヴィエトのこと以外にも当てはまると書かれていた。

これはどんな政治でも社会でも組織でも起こりうることなんだと思う。

1984年もそうだけど。


途中まではリーダーシップがあって信頼できていた豚だったのに、徐々に特権を持ち始める。

豚が貢献しているのは確かだし、豚がいなかったら成し遂げられなかったかもしれない。

だからこそみんな納得する。


でも少しずつ変だと思い始める動物もいる。

でもそれをうまく言えない。

言えたとしても、いつの間にか文書が書き換えられしまって、否定されてしまう。

なんだか暮らしが良くないと思っても、数字としては上がっていると言われたり、違う言葉に変えられて曖昧になってしまう…。


なんだか聞いたことあるような?


豚は確かに賢いし行動力があったし立派だったと思う。

最初は純粋にみんなを助けたかったのだろう。

でも、目の前に権力や地位や名誉や金やその他あらゆるものがあり、罰せられることもなかったらそれを拒める人はほぼいないだろう。

それが人間だからね。


どの国もどの考え方であっても動物農場に至ることはある。

目の前に手に入れられるものがあれば、手に入れようとしてしまうのが人間。

そしてそれを止めるのが周りの動物たちだった。

つまり一般市民だった。


侍女の物語でも思ったけれど、どういう意図でどういう教義でやるのかはあまり関係ないのだな。

自分たちが特権を握る社会を作りたいだけだから、形は違えどディストピアになってしまう。


今の社会も未来から見たらディストピアかもね。

紀元前あたりの本を読んでいて思うのは、今とそんなに変わらないということ。

進歩しているように見えて構造はそんなに変わらないものなのか。

将来、本当にディストピアにならないためには今が大事なんだろうな。


オーウェルは1945年に「動物農場」を、1949年には「1984年」を刊行している。そして1950年には亡くなってしまう。

もっと長生きしていたら、彼はどんな物語を書いたのか気になる。

もっとたくさん書いて欲しかった!

オーウェルの生涯についてもう少し知りたいな。

 

すべての動物は平等である。だが一部の動物は他よりもっと平等である。