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【上橋菜穂子】獣の奏者 探求編・完結編

あらすじ

エリンは闘蛇村を周りながら、一斉に急死した闘蛇について調べていた。それは闘蛇や王獣、この国の起源の秘密につながっていきー。国外では戦争が色濃くなっていき、エリンたちの生活にも影響を及ぼしていく。

 

完全にネタバレです。

 

 

 

 

読んでみて

エリンの一生

2巻終わりでは今後のエリンの人生がどこまででも広がっていくような希望があった。今回の3、4巻を読むと、エリンがいなくなってしまう布石をすごい感じる。実際にいなくなって喪失感もすごく感じるのだけど、でも、同時にエリンの思いは受け継がれていって消えることはないのだろうな、とも思う。人が死ぬのは悲しいし辛い。でもこの作品の場合は人が死ぬことは当たり前のことで、エリンも仕方がなかったのだという気持ちになる。もちろん悲惨だし、そうなる前に止めれたらよかったのだけど。もっと地面の近くで音無し笛を吹いたらそんなに衝撃がなかったのでは?とか色々考えてしまう。エリンとイアルの幸せな日々がもっと続いたらよかったのに。

エリンは辛い幼少期を送ってきて、政治的にも巻き込まれて自由な日々を送れなかったけれど、この世に生まれてよかったと思い続けていた。今の時代ってこの世に絶望する人が多い。でも獣たちは自分から命を絶つことはないわけで、エリンはそういう気持ちをずっと持ち続けたんだろう。獣みたいに自分の個よりも生を全うしようとする方がいいのか、人間のように悩み続けるのがいいのか。悩めるのもある意味が余裕が出てきているからでもあって、生物として発達したからではあるんだろうけどね。エリンみたいにジェシを産んでジェシも子どもを作って続いていくこともあれば、エサルのように自分で子どもを作らなくてもその人生の中でたくさんの人々に影響を与える人生もある人は生きている限り誰にも影響を与えないなんてことはないんだろうな

 

戦争について

上橋さんが戦争についてどう感じてどう思っているかは「鹿の王」だったり他の作品からもものすごく感じられるアボリジニを研究していることも影響しているのか、他の文化が他の文化を呑み込むことや国が侵略されその国独自の文化がなくなることの危険性を強く感じる。わたしは平和が好きだし、戦争はしてはいけないとずっと感じてきた。それはもう絶対的のもので多分どんな理屈があっても戦争を支持することはできないと思う。でも大人になるにつれ、戦争を正当化している人が多いことに驚いた。例えば第二次世界大戦で日本が戦争したことについて、その時の日本の立場からしたら仕方なかった、という考えはよくある。日本史が好きだから、その辺りの事情はよく分かる。そもそも開国した当初からひどい条約を結ばれていたわけで、そこからもう歪みがあったことは理解できる。でもどうしてもだからこそ戦争は仕方がなかった、という考え方ができないというかすごく嫌いで、多分そう考えてしまうと戦争で命を落とした人たちも仕方がなかったとなってしまうからだと思う。この辺りの考えに対して、うまく言えない気持ちをずっと抱えていたのだけど、この獣の奏者を読んでしっくりきた部分があるから紹介したい

 

祖母であったハルミヤがセィミヤへ伝えた言葉。

(どのような理由があろうとも、血を流すことを正当化してはならない。それを、骨身に刻みなさい)

そしてセィミヤの決意。

(わたしは、これから戦をせよと民に命じる。でも、けっして、戦を正当化はしないわ)

これまで、真王は、己を神と崇めさせることで、戦を嫌う心を民に植えつけようとしてきた。その一方で、大公にすべての磯れを押しつけて、戦によって守られ、戦によって利を得てきた。ーーそんな矛盾した方法で、国を支えられるはずがなかったのだ。

(戦は、避けねばならぬもの。なんとしてでも、避ける道を見つけねばならぬものなのだと、貴族も民も、そして、武人たちさえも心から思うようにならねば、〈戦〉に代わる道を見出すことはできぬ)

セィミヤは戦をしたいとは思っていない戦をすることが正しいとすら思っていないでも選ばねばならぬから選ぶしかない、そういう考えている。多くの国民を犠牲にした戦争において欠けているのは、このセィミヤの思いのように感じる。このセィミヤの思いが戦争を指揮する人間にあったなら、あれほど多くの人が死ぬことはなかったのではないかと感じる。でも同時にセィミヤのように強くなれる人間は少ないだろう。セィミヤはずっと国の頂点に立つ人間として生きてきて、さらに自分が神ではなくただの人間であると実感し、悩み抜いてきた。普通の感覚でいくと、戦争なんて大それたことをする場合はそれを正当化しないと生きていられないと思う。敵も味方も多くの人が死ぬのが戦争で、それが自分に責任の一端があったなんて誰も思いたくない。だから実際は難しいと思う。でもそれくらい強くなければ戦争なんてしてはいけないんだと思う正当化していたらどんどん歯止めが効かなくなってしまう。亡くなった人には親がいて家族がいて友人がいて知り合いがいて生活があって好きなものがあって日々の日常があって些細な楽しみがあって…。でもそこまでは考えず、ただただ数字の一部になってしまう

人生の流れ

人生は流れ移ろっていくものであって、それをこの探求編と完結編では描いているように感じる。どこまで必死に頑張った日々もいつかは過ぎ去った日となり、昔になり、ただの歴史の一部になる

エリンがジェシに言った言葉。

「人の一生は短いけれど、その代わり、たくさんの人がいて、たとえ小さな欠片でも、残していくものがあって、それがのちの世の誰かの、大切な発見につながる。……きっと、そういうものなのよ。顔も知らない多くの人たちが生きた果てにわたしたちがいて、わたしたちの生きた果てに、また多くの人々が生きていく……」

そしてジェシの言葉。

母の葛藤を間近でみることで、ジェシは、戦というものが、ひとりの英明な人の英雄的な行為で止められるものではないことを思い知った。人は群れで生きる獣だ。群れをつくっているひとりひとりが、自分がなにをしているのかを知り、考えないかぎり、大きな変化は生まれない。かつて、木漏れ日のあたる森の中で母が言っていたように、多くの人の手に松明を手渡し、ひろげていくことでしか、変えられないことがあるのだ。

亡くなった人にも関わった人がいて、誰かしらに影響を及ぼしている。そういうのが積み重なって人は生きていって、時代は流れていくんだと思う。そう思うとそれを急に消してしまう戦争がどれほど怖いものかその人の流れを無理に断ち切ろうとするのが戦争のように感じる

人は一人で生きているように感じても、結局は流れの中にいるんだろうな。わたしがここに生きているということは、誰かの人生の決断があって、それがずっと続いていたから生まれたのであって。果てしない続く一つの布のように感じる。元を辿れば大体の人が同じ先祖にいくつくのだろうに、なぜ小さな縄張りで争い続けているのか。でもエリンのように人も動物と同じだと考えると納得がいく。争いはなくならないだろうし、なくなるとしたらもっと強大な敵が表れたときなんだろうな。争いがなくならなくっても相手を殺すほどの争いなんてしなければいいのにね。

 

最後にエリンが言った言葉も心に残る。

「わからない言葉を、わかろうとする、その気持ちが、きっと、道をひらくから……」母の目には、笑みが浮かんでいた。やさしい笑みだった。