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 【宮部みゆき】孤宿の人

宮部みゆき】の孤宿の人(こしゅくのひと)

あらすじ

丸海藩は、海に面し自然豊かな藩で、紅貝を染料として布を染め綺麗な反物とする産業が盛んであった。金比羅さんからも近く、経由地として旅籠も賑わっていた。そんなところに江戸から「ほう」という女の子が流れ着く。邪魔者として疎まれ、学ぶことも許されず、「阿呆」の「呆(ほう)」と呼ばれてきた子が丸海藩の「匙」と言われる医者の井上家で過ごすことになる。ところがやさしくしてくれていた井上家の娘・琴江毒を盛られて亡くなってしまう。犯人は明らかにも関わらず病死となり有耶無耶にされてしまう。そんな折に江戸から「鬼」と恐れられている「加賀殿」が幽閉されるためにやってくる。勘定奉行という高い地位に就きながら妻子と部下を惨殺した加賀殿が来ることで、丸海藩には数々の災難が降りかかり始め…。

 

読んでみて

今まで読んだ宮部みゆきの作品の中で、これが一番悲しいけど同時に感動した物語だった。なんというか、今までにないくらい人がどんどん死ぬ!本当に!えっ、出てきた人で生きているのはあれ???ってなる。でもこの物語は一人の人生を描いているのではなく、流れていく時の一部分を切り抜いた物語なので、別に一人の人生が終わっても物語が終わるわけではない。命がつながっていく。一人一人の言動が別の人々に影響を与え、またその人々が別の人々に影響を与えていく。そうやって大きな出来事が起きたり、人の人生が変わったり、生き死にを分けたりする。

そういう意味では上橋菜穂子「鹿の王」と似ていると思う。宮部みゆき一人(主人公と何人か)の人物を丁寧に描いてその背後にある社会も描写する作品が多いイメージだったけど、これは社会が先にあって、そこに人が登場している感じ。

登場人物が亡くなるのは悲しいけれど、その人はただ亡くなったわけではなく、周りの人に何かを残したり、その人が自分で決めて人生を歩んだ結果だったりする。良いとか悪いとかではなく、そういう人生を歩んだ、その人の生い立ちがあり仕事があり、考えがあり性格があり、関わった人がいて影響を受け、影響を与えて、ほんの少しだとしても社会にも影響を与えた。

どの人物も人間らしさがあってとても良い。どの人物にも愛着がある。

私も登場人物たちと一緒にどうにかできないかと悩んで、藩がどうなろうとどうでも良いから自分の意見を通したいと思う時もあれば、今まで代々受け継がれ大事にしてきたお役目や藩のためなら個人的なんて優先されるべきではない、と揺れ動く。どちらも大事なように思う。自分が本当にどうにかしようと思えば変わるかもしれない、でも果たしてそれが幸せなのか、歯車だとしても今までの生活人生価値観を維持するために尽力した方が良いのではないか。それが賢いのではないか。色々考えてしまう。

ものすごく葛藤を感じる作品だった。こういう江戸ものは往々として、よく分からないけれど当人達には重要なことのために人の命が軽んじられることが多いように思う。傍から見るとそんなことのために命を落とすなんてバカバカしく感じる。ところが一度その社会に生き、暮らす者になると、それを守ることがとても重要なことのように感じてしまう。

これは現代でもあると思う。よく分からない利権争いのために戦争が起こり多くの人々が亡くなる。人の命より大事なものはないと教わるのにも関わらず、現実では何よりも人の命が塵のように扱われている。江戸寺代には明確な序列があって、士分よりも下のものたちの命は些細なもの、拭けば飛ぶようなもとして扱われた。実際そこで生きた人々はその明確で厳格な序列を理解した上で生きてきた。現代は目に見えないし、自覚はしていない人が多いけれど実際には序列がある。命の重みが違う。

世界を変えれる人とそうでない人の命の重みが違うのは仕方がないのかもしれない。でも本当にそうだろうか?社会のためにそこに住む人々が犠牲を強いられることが必要なことなのか、正しいことなのか。そこに住む人々がいなくなったら、国や藩を守ることなんてできやしないと思う。なのに国のため、藩のためと言ってそこに住む人々を犠牲にする。そうまでして守らなければならないものなんて本当はこの世にはないはずだ。

本作は「加賀殿」という要人でも罪人でもない扱いづらい存在が丸海藩に来たことが端を発している。厳密には加賀殿のせいではなく、元から燻っていたものが、加賀殿という程の良い隠れ蓑ができたことで生じている。そのため「加賀殿」じゃなくても隠れ蓑になるものであるなら何んでもよかったのだ。人々の不満、嫉妬、猜疑心、傲り、憧れ、期待、すべての感情、表出することが認められなかった感情を表出するいい訳にできるのだから。

渡部というなんともはっきりしない、しゃっきりしない、頼りないけれど人間らしい人物、彼の最期はなんとも言えない。私も琴江を殺したものはそれ相応の罰を受けるべきだし、そうしなければならないと思っていた。世界の理というか、人を傷つけたものが罰を受けないのであれば社会は理不尽であり、そんな世界に自分が生きていると思いたくなかった。でも実際に渡部がやったことをみると、なんと馬鹿なことをしたのだろう、と思ってしまう。美弥が死んだのはどうでもいい。実際死んで良かったと思う。其れ相応の罰を受けたのだから自業自得だ。でもそのせいで渡部の人生は終わった。それは元を正せば美弥のせいだ。美弥の欲望のせいだ。そのせいで琴江が死に、そして渡部が死ぬなんであってはならないことだ。琴江以外に誰かが死んでしまうなんてことは起こしてはいけなかったのだ。一人の欲望のせいで人が死に、そして多くの人生にも影響を与えるなんてあってはならないことだ。

でもだからといって何もしなかったらスッキリしたかと言えばそうじゃないだろう。一矢むくいてやりたいと思うだろう。復讐をしたい側からみるならば、必要なことだったのだと思う。そうしないと生きれなかったのだから。それならば人生を懸けてでも復讐しない理由なんてない。

理不尽なことが次々と起こる中、「ほう」だけは希望として存在していた。この物語の中で「ほう」が一番吹けば簡単に飛ぶ命であり、いつ死んでもおかしくない状況だった。むしろ丸海藩に流れ着く前もいつ死んでもおかしくなかった。でも「ほう」は生き、そして「鬼」と恐れられている「加賀様」と会うことになる。物語の序盤では、どうやって「加賀様」が物語にか関わってくるのか分からなかった。なにしろ加賀様に会える人は限られているのだから、登場人物たち、特に「ほう」が会える状況が想像できなかった。でもなんとなく、ぼんやりと「ほう」と加賀様は出会うのだと思っていたら、実際そうなった。

「ほう」と加賀様の交流はなんとも言えないものがある。心にくるものがある。少しでも状況が変われば出会えなかった二人。悲しい出来事があったからこそ今ここにいる二人。人生は数奇だし、どう転ぶのか分からない。「ほう」と出会ったことで加賀様が少しでも安らげたなのならいいなあ、と思う。

自分の信念と現実が違ったときにどう折りあって生きていったらいいのか、この作品は示してくれる。どの人たちも葛藤抱えながら選択し、人生を歩んでいく。傍から見ると馬鹿に思える選択肢だったとしても。自分に恥じないように生きたい。でもそうはいかないのかもしれない。匙の井上啓一郎の葛藤が一番自分に近いような気がする。理想を掲げながら期待に胸を躍らせていたにも関わらず、現実は容赦なく自分が無力でどうすることもできないことをつきつけてくる。でも心のどこかでは、まだ期待している。「ほう」を通してみることができるのではないかと。そんな啓一郎に和尚が言った言葉が心に響く。

己と啓一郎を合わせて哀れむように、ゆるりと首を振って啓一郎の言葉を退けた。

「我らには見えぬ御仏であらせられる。なれど、あの子は会うた。」

「ほう」と我らは違うことをはっきりと言っている。我らと言うのは、この世界を半ば諦めそれに呑まれてしまった者たちのことのように思う。

でも大多数の人間は呑まれていると思う。自分もそうかもしれない。でも、志は持っていたいと思う。自分自身の尊厳のために。